親愛なるジャンボプールの神様へ

ヨーロッパ史のこと、移民のこと、スイムウェアのこと、社会のこと、政治のこと、生活のこと書いています。

交友関係について。

 モンテスキュー三権分立に対する理解はままならないですが、充実した人生の三本柱について友人が示唆に富んだことを教えてくれました。充実した人生には、いい仕事、いい恋愛、いい交友関係の三つがそろっていると。

 

 私は先月、東海地方に移住して半年という記念すべき節目を迎えました。ええ、勝手に記念してしまいます。だって、誰がどう言おうと記念すべきなんですから。住んだことのない人に向けて言いましょう。愛知県、よかったです。何がよかったか?スーパーは安くて楽しい、名駅や栄のような都会もある、おいしいレストランもある、立派な図書館がある、しゃれたケーキ屋さんやパン屋さんがある、人は多すぎない、海にも山にもいきやすい、仕事もある。思いつくところを述べて、魅力が伝わったかどうかわかりませんが、とにかく懐かしく思い出されるのです。

 

 現在、三重県に引っ越してきて、新たな生活を始めました。夫さんとは相変わらず楽しい日々を送っています。仕事も変わりました。非常に学びが多く日々葛藤していますが充実しています。三重県に越してきて、より強く恋焦がれるものがあります。交友関係です。自分ではそれほど意識していたわけではないのですが、知らない人と楽しくおしゃべりをする夢を何度か見るようになったので気づきました。

 

 私はこれまで楽しい夢を見たことがほとんどありませんでした。夢ではいつも時間に追われたり、仕事で失敗したり、追いかけられたり。意味不明な夢はあっても楽しい夢はありませんでした。しかしここ最近知らない人と楽しく会話をしている夢を見るのです。実にいい夢です。以前睡眠について研究している先生が書いた本を読んだのですが、こう書いてありました。夢は警戒心の表れだったり何らかの危険を警告するものであることが多く、太古の昔から人間が生き残るために役立ってきた、と。

 

 とすると、楽しい会話をしている夢はなにを警告してるのか?警告というと語弊がありますね。しばらく考えた結果、こういう結論になりました。東海地方に越してたことで、一緒にいてありのままの自分でいられる長年の友人たちを地元に置いてきてしまい、その喪失感にすこしやられていた。愛知県でも交友関係の輪が広がりつつあったのに、またそこを離れることになってしまった。要するに、自分は楽しい交友関係を欲している。充実した人生の三条件である「仕事」、「恋愛」、「交友」のうち、最後の一つが心もとない状況にあり、結構欲しているんだと。それを夢がそれとなく警告したのかもしれないと。

 

 恐らく、新しい職場で人の目を気にしすぎて自分を抑えすぎているのが我慢の限界に来たのかもしれません。経験がない分野で雇っていただいたので、迷惑かけないように、馬鹿な失敗をしないように、慎重になりすぎていました。職場の人と接するときも、同じく慎重になりすぎて、自分を発揮できず、あとで溜息するばかり。前職では職場の人とはフレンドリーにやっていて、職場が交友の場でもありました。新しい土地に引っ越してきたのでなおさら職場がちょっとした交友の場であれば助かるものです。皆いい人たちばかりなのに、自分がいらぬ心配ばかりしているのです。もう少しリラックスしていいのかもしれません。夢ではとてもリラックスしていて、おかしなユーモアも交えて楽しげに話ししていましたからね。

 

 そんなこんなで、自分が「交友」を無意識に求めていることを偶然にも夢が教えてくれました。気づいた以上はもうそんなに楽しい夢は見れないかもしれません。が、きっと現実での交友がそれをはるかに上回る充実感を人生に与えてくれること間違いなしです。

恥ずかしいと思っていること。

 他の人にとっては何のこっちゃわからんとは思いますが、とにかく自分ではすごく恥ずかしいと思っていることがあります。歴史の学者になりたいと思っていたのですが、「どこの歴史?」と聞かれるとはっきり答えられません。恥ずかしいかな、これが私なのです。悔しいかな、これが現状なのです。歴史は好きなのです。ただ、ここの歴史とまだはっきり定められていない。それってつまり、私には向いていないのでしょうか?と思うのです。でも歴史ほど好きになったものもなかなかないのです、この人生。歴史といっても昔から一番関心があったのはヨーロッパの歴史でした。歴史ではありませんが、アジアや南米、アフリカのこともその地域に特化したクラスをとって勉強しましたし、論文も書きましたが、やはりヨーロッパが一番の興味の対象でした。

 まあでも恥ずかしいと思っているだけでは何も進まないので、ひとまず心が向かうところについていこうということで、自分が心底知りたい!と思ったテーマの歴史の本を読んでいます。そこでふと思いました。まあ、確かに現状はなんともこころもとないものではあるが、これはきっと神様の導くところなのだなあ、と。大学では本当に歴史の勉強しかしていなかったのですが、そのときはとにかくそれぞれの授業のテーマのことを学ぶのに必死でした。そして課題を仕上げたり試験の準備で必死でした。自分が研究者になるんだったらこれをもっとやりたいとか、これは面白いな、もっと深めたいなという視点があまりありませんでした。そう思うものに出会っていなかっただけなのかもしれませんし、そういう視野の広さも心の余裕もなかったのかもしれません。ですから、今ゆっくり何に追われることもなく、自分のペースで心ゆくまま歴史の世界につかることができる。そういうチャンスを神様がわざわざ与えてくださったのかもしれません。その先に自分なりの研究テーマが見つかればいいなあと。学生の時とは一味違う歴史の愛し方があるのかもしれません。じっくり歴史と人生を歩んでいきたいと思った今日この頃です。

もの思い。

 日々思うことがたくさんありますし、日々様々な思いを乗せて過ごしております。しかしそれらはとめどなく流れていく川に運ばれていく枯葉のようで、じっととどまることがほとんどありません。私は流されていく枯葉を惜しむように見いるのですが追いかけることができないでいます。そうしているとまた上流から新たな枯葉がやってきてはまた流されていきます。

 

 訳あって片田舎に引っ越してきました。転職もしました。人生の方向性を考えあぐね、小さな葛藤を繰り返したこの短い一週間の間、多くの枯葉が流されていきました。

 

 夜遅く、名古屋駅からバスに乗り高速を走りました。真っ暗なところにちらちらと小さくしかしはっきりと光る街頭や家々の明かり。その中でひときわ目立つ四両編成の電車の明かり。中にほとんど人がいないためか、より大きく、より大胆に光が動いていきました。名古屋の都会から住宅街から山の合間をぬってつい先日越してきた町まで1時間ほど。読書ができないため、じっと哀愁漂う音楽に身を任せながらバスに揺られました。

 

 ずんずん通り過ぎる高速道路の電燈のようにたくさんのフラッシュバックが頭をよぎりました。対向車線を走る車のヘッドライトが一瞬一瞬まぶしく、またどこからか忘れてきた葛藤やら悔恨やら複雑な思い出を運んでくるのです。一日の疲れにも関わらず、一睡もせず、そうこうしているうちに、バスは高速道路を降りて、マンションの前まで来ました。

 

 意思に反して数々の複雑な思い出が掘り起こされ、気持ちばかり振り返ってみたものの、なんらかの答えやら結論やらが出たわけではなく、ただしみじみと自分がとおってきた道を眺め、そこにいたときの感情がじんわりと沸き起こるのをせつなくやり過ごすのみでした。親切な人々に冷たい態度で接してしまったこと。間違った人と付き合ったがために痛い目にあったこと。歴史家の道に進みたいと思って葛藤したこと。ストレスも多く、難しかったがやりがいもあって自分を大いに成長させてくれた営業の仕事。

 

 私はバスを降りて、マンションへと向かいました。暗いところをずっと物思いにふけっていたせいか―それも楽しいことばかり考えていたわけではない―、家で待っている夫に会うのが急にうれしくなり、小走りでマンションの入り口に入り、エレベーターに飛び乗りました。自信を無くしていたとは自分では思っていなかったものの、少しばかり自分の通ってきた道、自分の人生を前よりも少し暖かい気持ちで見ることができそうな気持になっていました。

 

"Failure is hard but success at wrong thing is much harder."

 先日呼んだ本で印象に残った言葉です。印象に残ったというのも、自分に思い当たることがあったからです。ビジネスの世界に入って、あまり得意とも向いているとも思えない仕事をしました。ビジネスにはまったく関心がなかったし、なんの知識もなく、行きたいとも思わなかったし、行ってなにか役に立つことができるとも思いませんでした。自分にはもっと他に向いていることがあるし、情熱を傾けられることがあると知っていました。ですが、ビジネスの世界でそれなりに頑張って、実績と経験を積んで、自信も得ました。今の自分はその上に立っているのです。自信というのは、なにか一つのことに集中して、周りと結束してインパクトを残して行くことによって得る、自分への信頼のことと思います。

 

 ただ、最終的にはこのインパクトを残し、自分の自信にもなった経験には一つの注意点を残したように思います。それは、辞めた理由を忘れないということ。それを忘れかけているからもしれないから、上記の言葉がひっかかったのだと思います。自分の自信にもなったその仕事をなぜ辞めたのか。それ以上やることで、自分がもっと自己実現できる機会を逃してしまうことを恐れたからです。たしかに、その仕事で成長することができたし、さらにその仕事が与えてくれるだろうチャレンジングな課題に取り組むことでさらに成長することもできたかもしれません。しかし、ひとつ成長して自分の可能性が広がった今、もっと自分が情熱を傾けられること、自分が真に望んでいること、もっと心躍ること、やりたいとおもっていたことに取り組んで、それらをただの理想で終わらせずにいけるのではないかという気がしてきたのです。それができるかもしれないのにやらないのは、「逃げ」であり、成長を止めることと同じであると感じました。きっと後で後悔するだろう、と考えました。

 

 ところが、仕事をやめていざ何かをしようとしても、目指している分野での経験があまりにもなさすぎる。小さいスケールではじめようと思い、やってみたものの、あまりにも自分の性にあわず、また非常に退屈で進まない。時間を作るためにパートタイムで働いていたので、なかなか貯金が増えない。同時期にリフォームやら引っ越しやらが重なって金銭的に苦しい。そんなこんなで、またビジネスの世界に戻ってきたわけです。

 

 結局、自分の自信となり、スキルもみがいてくれたと思った経験と実績は、success at a wrong thingだったのかと疑うようになりました。そう、まさしくその可能性があるから、その仕事から離脱したのです。それを、はっと思い出したのです。たしかに、様々な課題に立ち向かい乗り越えたことで自信を得たのは素晴らしい経験だった。さらにその仕事で挑戦しつづけることで、さらなる成功を手にしたかもしれない。しかし、そのさらなる成功は「success at a wrong thing」である可能性がある。自分の情熱がもっと別の場所にあることをいつも心のどこかで知っていたからです。ただ、成功という経験が自分を半ば盲目にしてしまいそうな状況に度々ある。Failure is hard but success at wrong thing is much harderという言葉を読んで、そんな事実に今一度気づいたのです。

“Am I traumatized by my old teacher’s words?”

 今 What Should I Do with My Life?という本を読んでいます。この本は、人々が人生の目的や目標をどのように見つけたか、あるいは見つけようとして葛藤したか、人生で直面したさまざまの状況をどのように受入れ最大限に活用してきたかをインタビューをとおして解き明かしています。

 

 著者がインタビューをした人数は約1000人。この本に照会されているのは一部ですが、実に様々な人生があります。どんな人の人生にも必ず共感する点が一つはあり、自分の経験と彼らの経験とを重ね合わせずに読むことは非常に難しい。これを読みながら、いつの間にか自分の人生を振り返っており、その方向性について思いめぐらしているのに気が付きました。

 

 一つ、高校生の時に尊敬する先生からかけられた言葉で、自分も半信半疑のまま納得したものに、今でも半ばとらわれているのではないか、という疑問が頭をもたげてきました。私は歴史が大好きで、青春のすべてをささげるくらいのめりこんでおり、歴史学をやるという明確な目的のもと大学進学を心に決めていました。尊敬する先生は現代文の先生だったのですが、私が大学で歴史学をやることにとても楽しみにしていることを知っていたので、卒業前に、「歴史学の道に進み、是非自らの学説を立ててください」と激励の言葉を贈ってくれました。こんな風に家族以外で私の歴史学そのものへの情熱を理解し、励ましてくれた人は先生ただ一人でしたので、大変感激してずっとこの言葉を大事にしていました。

 

 しかし、先生の言葉を目にしたとき、感激すると同時にちょっとした違和感と不安を感じたのも事実でした。特に「学説」という響きです。歴史そのものに「硬いなあ」とか「小難しいなあ」とか思ったことはないのですが、この「学説」という響きにどうもしっくりこないものを感じました。そういうお堅いのはちょっと苦手だなあ、読むのはいいけど作るなんて自分にできるものなのかなあ、という気分になったのを覚えています。とはいえ、先生がそう言って下さるということは自分はきっとその道に進むべきなんだ、自分に向いているに違いない、それに先生の期待を裏切るわけにはいかない、という思いになり、それが先生の言葉に対する大筋の私の解釈となりました。

 

 大学卒業後、ここでは割愛させていただく様々な葛藤を経て、結局私は歴史の道を外れることとなりました。しかし、数年してやはり自分には歴史学の研究者しかないのだろうというほとんど確信に近いようのものを得て、再び挑戦することとなりました。ところが、どうもうまくいかないのです。歴史の学術書を読むのに非常に苦労するのです。確かに、内容は興味深く、読み終わった後は読んでよかったと思うのですが、何かexcitementに欠けるのです。食い入るように読むことがないのです。何か、こう全神経を集中させて、重い荷物を持ち上げるような感覚で本に立ち向かわなければいけないと感じるのです。

 

 もちろんすべてが簡単でスムーズで楽しくて、というわけにはいかないのはわかっています。ただ、努力と情熱がどこかで交差するわけでもなく、なんとなく平行線をたどっているような状況が長く続いていると、「努力の対象が間違っているのではないか?」、「自分自身を捧げたい(つまりdevote myselfしたい)issueなのか、これは?」という疑問が湧いてくるのです。先生が仰った、「歴史学の道に進み、是非自らの学説を立ててください」という言葉の中で、私が引っかかったことは正しかったのではないかと思い始めました。確かに歴史学に対する情熱は燃え続けていますし、一生消えないことはわかっています。ただそれが、アカデミアとして「学説」を打ち立てるということなのかが段々怪しくなってきました。要するに、アカデミアであろうがなんであろうが、歴史学をやり続けたいが、いざ仕事にしようとすると、アカデミアになるしかないのでは、そして、アカデミアになろうとすると、やはり学説を打ち立てなければならない、とこう来るわけです。つまり、情熱とキャリアのはざまで贅沢な悩みを抱えているわけです。

 

 しかし、よく考えてみれば、歴史学をやりたいということはなにも、フルタイムの研究者になりなさいということではない。たとえば、小説を書くときに設定されている時代について調べることもあるし、その中で自分なりの歴史の解釈をすることもある。より重要なのは、devote onselfできる、ということだと思います。もし、重い荷物を持ち上げるような気持で学術書を読み続け、それが辛くてもう歴史をやりたくないという気持ちになるくらいであれば、やはりそれは読む必要のない本なのでしょう。そこまでいかなくても、その本を読んでいる途中か読んだ後に、歴史からしばらく遠のいてしまうのであれば、同じく読まなくてよかったのだと思います。読むのは大変だけど、読み終わった後にもっと読みたいという気持ちが自然とわいて出てくるのであれば、多分読み続けていいのです。

 

そうやって自分の好奇心とexcitementの羅針盤に従って、海を航海していけば、つくべき島につくのではないか、と思い始めています。高校時代の先生からの激励の言葉、「是非歴史学を極め、自分の学説を打ち立ててください」という言葉とそれに対する自分の解釈にとらわれ続けていたのから、段々と解放されつつあるのかなあなんて思っています。

スーパーマーケットの神様なるもの。

 私はスーパーが好きです。私は気落ちしたときにスーパーに行くと、とたんに元気になります。ええ、俗物と思われるかもしれませんが、一向に構いません。

 

 先日、ちょっとここでは言えないくらい嫌な失敗を仕事でしでかしたかもしれないことがわかり、非常に気落ちしたことがありました。家に帰っても、そのことが頭から離れず、甘いものを食べたり、大丈夫だと自分を慰めてみたりしたものの、心の中がずっともやもやしていました。いつも相談事をしている夫はまだ帰っていなかったので、助言を仰ぐこともできず、終始そわそわしていました。

 

その日の晩、夫は7時ごろ帰路につきました。夫は駅前のクリーニング屋に出していたワイシャツを引き取らねばならず、荷物が増えて大変だろうから、自転車で迎えに行くことにしました。クリーニング屋で待ち合わせ、夫が10枚くらいあろうかと思われるワイシャツの山を受け取るのを手伝った後、隣にある大きなスーパーへ寄りました。お店に入ると、途端に色とりどりの野菜やら果物やらが見えてきて、勝手にこちらの気分を盛り上げてきました。別にお願いしたわけでもないのに、一方的に盛り上げてくるんです。野菜コーナーを過ぎたら、魚コーナー。乾物や乾麺、調味料のコーナーを横切って、肉コーナーへ。次から次へと、目を楽しませ想像力を膨らませます。まるで遊園地か何かに来たような感じです。そして、作れるかどうかも分からないのに、食べたいものリストが頭の中で瞬時に作成され、コストコで買い物をした時のレシートのようにどんどん長くなっていきます。そうこうしているうちに、嫌な気分はだんだんと中和され、下方修正ばかりしていた気分は確実に上方修正されていきました。

 

少し買い物をした後、盛り上がった気分のまま、帰路につきました。仕事上がりで疲れているであろう夫には申し訳ないなあと思いつつ、やはりその日あったことを愚痴を交えて報告し、その後は楽しくおしゃべりしながら歩きました。スーパーに来る前のどんよりした気持ちは大分晴れていました。もちろん、もやもやの原因の問題が解決したわけでもないし、自分が反省すべきこともありますが、スーパーにきてリフレッシュすることで、ひとまず前を向き直して進むエネルギーを手にしたわけです。たかがスーパーではありますが、来る前と後では、後の方がストレスが軽減され、しかも免疫力がアップしているのではないか?というくらい元気をくれるのです。スーパーの神様なるものがいるのでは?と思うくらいです。

秘境ベネズエラ。

 寝る前、夫が隣でおどけ始めました。

 「タラタターン。世界ふしぎ発見がはじまりました。今週は秘境ベネズエラに隠された巨大インフレの秘密に迫ります。」

 「てか、ベネズエラって秘境だったの?!おかしくね?」とつっこみました。

 

 小学生の時から、よく見ていました、この「世界ふしぎ発見」。子供の時から海外に興味がありました。今思えば、この番組の影響もあって、興味をもったのもあるかもしれません。最近はコスト削減のためか、国内や台湾(好きですが!)特集が多くなってきたような気もしますが、気のせいでしょうか?

 

 それも全然いいのですが、もっともっと世界にはたくさんのふしぎがあって、是非番組に取り上げてほしいテーマがあります。たとえば、

 

ベネズエラのインフレ(いったいこの国はどうなっているの?)

・アルゼンチンの破産(なぜいつもお金でトラブっているのか?)

 

「そういうテーマやったら、大使館からクレームが来るかな。」

「日立が受け付けないんじゃない?南米のお客さん失っちゃうから。」

「電車売れちゃくなっちゃうか。」

 

 とはいえ、やはり自分でネットで調べてみてもいまいちよくわからなかったベネズエラとアルゼンチンのインフレ。アルゼンチンなんか、ここ100年くらいずっとお金でもめている気がして、とても気になるのです。誰か分かり易く教えてくれないかなあ。ミステリーハンター、頼む。